ひぐらしはゲームと呼べるのか今更ながら考えてみた

もう随分前のことになるが、友人から一本のPCゲームを借りたことがあった。その頃はまだwindowsのOSも95が全盛期で、インターネットもISDN。PCでゲームなんてせいぜいソリティアくらいしかやったことが無かったから抵抗があったのを覚えている。ただ、そいつがやたらプッシュしてくるから渋々借りたわけだけど、その時友人が言った一言が強烈に印象に残っている。

やるからには全部のエンディング見ろよ、絶対な。

・・・全部のエンディング?エンディングが複数あるのか。その時はいまいちイメージが沸かなかった。それもそのはず、当時マルチエンディングなんてシステムは確立されていなかったわけで、後々結構な衝撃を受けることになるのだが。

ちなみにそのゲームとはleafの「痕」というゲームで、知る人ぞ知る名作だ。ノベルゲーの基礎を作った作品だと思うし、傑作だと思う。テキスト、BGM、グラフィック。それらが合わさった時、映画にも小説にも無い魅力が確かにそこにはあった。

なにより登場人物一人一人にフォーカスを当てて、パラレルワールド的に作品を展開することができるのが最大の特徴だと思う。小説が、一つのストーリーを掘り下げるのに対し、マルチエンディングは複数のシナリオを展開することによって、作品を多面的に創ることができる。同じことを映画や小説でやると破綻するだろうね。

で、この「痕」って果たしてゲームと呼べるものなのかというと間違いなく呼べると思う。

一方ゲームデザイナーグレッグ・コスティキャンは雑誌Interactive Fantasyの記事 'I Have No Words & I Must Design' において、例えば『シムシティ』の作者ウィル・ライトが自分の作品を(「ゲーム」ではなく)「toy(おもちゃ)」であるとしている言葉などを引きつつ、ゲームとは「充分な情報の下に行われた意思決定 (decision making)をもって、プレイヤーが与えられた資源を管理 (managing resources)しつつ自ら参加し、立ちはだかる障害物を乗り越えて目標 (goals)達成を目指す」ものであるとしている。

ロジェ・カイヨワは、playに対応するパイディアPaidea(娯楽)の類型に対するものとして、ルール的制約をもちgameに対応するルドゥスLudus(闘技)を提案している。
ゲーム - Wikipedia

この定義で判断すると痕はプレイヤーに選択権があることからゲームと呼ぶことができる。
じゃあ、選択肢が無いことで有名な同人ゲーム「ひぐらしのなく頃に」は、ゲームと呼べるのだろうか。

しかし、わざと選択肢を与えず最後まで決まったストーリーとすることで全てのプレーヤーに事件解決への情報を等しく与え「プレーヤー自身に物語の謎を推理、想像させる」ことによって、全員が同じ情報、同じ条件で意見を述べる事となり結果上述のようなコミュニティサイトの盛り上がりを生み出したとされる。
ひぐらしのなく頃に - Wikipedia


・・・凄い、普通にゲームとして定義できる。
クリエイターの竜騎士07はそこまで狙って作ったんだろう、あえて謎を残したのが最大の功績だろうね。実際、推理小説で同じような作品を作ってもブームは起こらない、と思う。ひぐらしブームは、ネット上のコミュニティで活動する「オタク」が主なプレイヤーだったからこそ成し得た奇跡、なのかもしれない。

ひぐらしのなく頃に祭(通常版)

ひぐらしのなく頃に祭(通常版)