ラノベと携帯小説の読者層が違うからこそ深刻なのかもしれない
痛いニュース(ノ∀`) : 【ケータイ小説】モバゲー小説大賞で優秀賞を受賞した作品がエロゲの丸パクリな件 - ライブドアブログ
実際の小説読んで見なきゃなんともいえないけど。
いつも思うんだけど、ギャルゲーのシナリオはホントに秀逸なのが多いと思うんです。俺はゲームとかアニメは好きだけど、それ以上に映画とか小説も好きでそれなりの数の作品を見てきた、つもり。で、客観的に見てもギャルゲーのシナリオはよく出来てる。それがあまり世間に露出していなかったのは、やっぱりほとんどが18禁のゲームで、ゲームの中でもどっちかというとアングラな部類に入るからだ(そりゃそうだ)
今回の件で気になったのは、ジャンルがラノベじゃなくて携帯小説という点。これが書籍化しても携帯小説の読者で、元ネタがゲームだなんてこと気付く人ほとんどいないんじゃないだろうか。ヒットの可能性もある。
同じ恋愛物でも、恋愛小説とは全くベクトルが違うものだろうから。
恋愛小説は心の葛藤を描く。それに対して読者は共感して感情移入する。でもそれは縛りでもある。恋愛というジャンルは人気があるからこの手の作品は世の中に溢れている。そんなありふれた作品の中に、実は現実はループしていた、とか前世がどうたらこうたらとか、ぶっ飛んだ設定の作品が小説という形でちょっとでも話題にあがったら……。皆飛びつく、かもしれない。
ひぐらしはゲームと呼べるのか今更ながら考えてみた
もう随分前のことになるが、友人から一本のPCゲームを借りたことがあった。その頃はまだwindowsのOSも95が全盛期で、インターネットもISDN。PCでゲームなんてせいぜいソリティアくらいしかやったことが無かったから抵抗があったのを覚えている。ただ、そいつがやたらプッシュしてくるから渋々借りたわけだけど、その時友人が言った一言が強烈に印象に残っている。
やるからには全部のエンディング見ろよ、絶対な。
・・・全部のエンディング?エンディングが複数あるのか。その時はいまいちイメージが沸かなかった。それもそのはず、当時マルチエンディングなんてシステムは確立されていなかったわけで、後々結構な衝撃を受けることになるのだが。
ちなみにそのゲームとはleafの「痕」というゲームで、知る人ぞ知る名作だ。ノベルゲーの基礎を作った作品だと思うし、傑作だと思う。テキスト、BGM、グラフィック。それらが合わさった時、映画にも小説にも無い魅力が確かにそこにはあった。
なにより登場人物一人一人にフォーカスを当てて、パラレルワールド的に作品を展開することができるのが最大の特徴だと思う。小説が、一つのストーリーを掘り下げるのに対し、マルチエンディングは複数のシナリオを展開することによって、作品を多面的に創ることができる。同じことを映画や小説でやると破綻するだろうね。
で、この「痕」って果たしてゲームと呼べるものなのかというと間違いなく呼べると思う。
一方ゲームデザイナーグレッグ・コスティキャンは雑誌Interactive Fantasyの記事 'I Have No Words & I Must Design' において、例えば『シムシティ』の作者ウィル・ライトが自分の作品を(「ゲーム」ではなく)「toy(おもちゃ)」であるとしている言葉などを引きつつ、ゲームとは「充分な情報の下に行われた意思決定 (decision making)をもって、プレイヤーが与えられた資源を管理 (managing resources)しつつ自ら参加し、立ちはだかる障害物を乗り越えて目標 (goals)達成を目指す」ものであるとしている。
ロジェ・カイヨワは、playに対応するパイディアPaidea(娯楽)の類型に対するものとして、ルール的制約をもちgameに対応するルドゥスLudus(闘技)を提案している。
ゲーム - Wikipedia
この定義で判断すると痕はプレイヤーに選択権があることからゲームと呼ぶことができる。
じゃあ、選択肢が無いことで有名な同人ゲーム「ひぐらしのなく頃に」は、ゲームと呼べるのだろうか。
しかし、わざと選択肢を与えず最後まで決まったストーリーとすることで全てのプレーヤーに事件解決への情報を等しく与え「プレーヤー自身に物語の謎を推理、想像させる」ことによって、全員が同じ情報、同じ条件で意見を述べる事となり結果上述のようなコミュニティサイトの盛り上がりを生み出したとされる。
ひぐらしのなく頃に - Wikipedia
・・・凄い、普通にゲームとして定義できる。
クリエイターの竜騎士07はそこまで狙って作ったんだろう、あえて謎を残したのが最大の功績だろうね。実際、推理小説で同じような作品を作ってもブームは起こらない、と思う。ひぐらしブームは、ネット上のコミュニティで活動する「オタク」が主なプレイヤーだったからこそ成し得た奇跡、なのかもしれない。
- 出版社/メーカー: アルケミスト
- メディア: Video Game
- 購入: 1人 クリック: 35回
- この商品を含むブログ (157件) を見る
スクールデイズ最終話を見た
原作があるうえに放送自粛されるくらいだから、ほとんどの人がある程度は結末を予想していたんじゃないだろうか。自分も、まぁ今度は世界が言葉殺して誠と心中、みたいな感じかなと予想してながら最終話を見た。が、
・・・これは予想できないw
間違いなく原作のどのエンディングより秀逸だと思った。とにかく演出が凄い。誰かが死ぬってのがわかっていたから余計緊迫感を感じた。
例えば、途中で世界の精神世界みたいな自問自答するシーンがあったんだけど、それが電車走ってる陸橋の上だったり(世界自殺EDか)とか、誠が殺されるシーンでの携帯使った演出とか。さりげないのが散りばめられている。
あと殺害シーンで何か違和感を感じたんだけど、それってアニメであそこまでリアルな人の殺し方を描いたのを見たことなかったからだろうな。たしか刺殺って出血死する以前にショック死するんだっけ。誠殺害後の世界のリアクションもリアルだ。実際人を殺したりしたらなにがどうこうより、その場から逃げ出すよなぁ、それがたとえ自分の大切な人でも。挿入歌とか、回想シーンを織り交ぜたりとか鳥肌立った。原作の「鮮血の結末」見たときも思ったけど、なんていうか死に方がリアルなんだよ、火サスみたいに人が刺されたら「うぐっ」とか言ってその場に倒れこんで終わりじゃくなくて。
殺す瞬間の間といい(もったいぶらずサクッといっちゃう)ギャルゲー調作画とのギャップも相まって異様なリアリティが生まれているような気がした。試写会で嘔吐した人がいたらしいけど、アニメでそこまで表現できるのは凄いと思う。
・・・最後のヨットのシーンて単なる偶然?
ライトノベルの存在価値
ライトノベルは時として偏見の目で見られる。「あんなの小説じゃない」みたいな。実際、挿絵を使用している時点でそれは小説としては邪道だ、間違いなく。それはラノベ作家(元といったほうがいいのか)の乙一自身も感じていたようだ。
学生時代には『スレイヤーズ』などのライトノベルを愛読していたが、後に「内容の薄さを綺麗な挿絵で誤魔化している作品が多すぎる」と感じるようになり、ライトノベルから遠ざかったという。作家としてのデビューはライトノベル作家としてであったが、「ライトノベルの存在さえ知らない人や、読書家でもライトノベルには手を出さない人が多くいることも事実である」として、『失踪HOLIDAY』『きみにしか聞こえない CALLING YOU』『さみしさの周波数』(いずれも角川スニーカー文庫)の収録作から5作品を選び、新たに書き下ろし作品を加えてハードカバー化されたのが『失はれる物語』(角川書店)である。だが決してライトノベルを嫌いになったわけではなく、今でもライトノベルに対する愛着心は有り、ライトノベルのおかれている現状を憂いている。ちなみに本人は、自身の小説と比較してライトノベルが劣っているという評価を好ましく思っていない。
しかし、そもそもライトノベルは真っ当な小説である必要は全くないのだ。
- 敷居の低さに価値がある
今オタク産業はメディアミックスで成り立っている。その基盤となる原作として注目されているのが漫画であり、ヴィジュアルノベルであり、ラノベだったりする。
で、自分も趣味で小説を書いていて、よく実感するのが小説=描写だということ。どんだけ凄いストーリーが描けても、この描写力がなければ薄っぺらいものになってしまう。かつて文豪と呼ばれていた連中の描写力はやはり凄い。しかしラノベでそれができている作品にはほとんど出会ったことがない。そもそもラノベにそこまでの文章力なんか求められていないわけだ。求められるのは、ストーリーはもちろん、まずキャラクターに魅力があるかだったり世界観だったり。
読者やあるいは編集者が、作品に何らかの魅力があればそこをダイレクトに評価してくれる可能性がある。いわばラノベは自分のアイディアを表現する企画書のようなものだと思う。
だから普段挿絵などで読者に脳内補完されている作品が、アニメ化された途端圧倒的な魅力を放った作品が多々ある。
これは、文章力という表現力が欠けていた原作に、アニメーションとBGMという表現力(それもプロの映像作家の)が加わった結果、作品本来の良さが引き出された結果だと思う。
とにかく、素人が作家としてプロデビューを目指すなら、とりあえずラノベが一番可能性があるんじゃないのかな。だからこそラノベは敷居が低いままでいて欲しいと思う。間違ってもラノベに高尚さなんて求めてはいけない。
きみにしか聞こえない―CALLING YOU (角川スニーカー文庫)
- 作者: 乙一,羽住都
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2001/05
- メディア: 文庫
- 購入: 8人 クリック: 182回
- この商品を含むブログ (226件) を見る
キノの旅―The beautiful world (電撃文庫 (0461))
- 作者: 時雨沢恵一,黒星紅白
- 出版社/メーカー: メディアワークス
- 発売日: 2000/07
- メディア: 文庫
- 購入: 5人 クリック: 206回
- この商品を含むブログ (242件) を見る
ある意味鮮血の結末よりショッキングな結末だった
この機会にスクールデイズのアニメ版をもっかい見てみた。(ゲームしかやったことなかったから)
・・・普通におもしろいね、アニメ版。なにがおもしろいかって、主人公がリアルで最低なところが。「誠氏ね」が合言葉になるくらいだからよっぽどだと思うけど、こんな救いようが無い主人公は初めて見たw。無条件でモテルってところはギャルゲーの定石まんまだけど、パラレルワールド的にストーリーが進んでいかないのがヒットの要因だと思う。
普通ギャルゲー(ノベル形式ADV)は、主人公が複数の選択肢を選んでいくため、大抵マルチエンディングということで複数のエンディングが用意されている。で、モテモテの主人公の周りには複数のヒロインがいて、好きな子を選ぶ選ぶわけだけども、ゲームを攻略するには大抵一人のヒロインに焦点を合わせなければならない。そして、選ばれなかったヒロインにスポットライトが当たることは無い。最初からいなかったような扱いをされてしまうわけだ。
ただ、このスクールデイズはその定石を崩している。主人公は出てくるヒロインほとんどに手を出す。でもこのゲームはよくあるハーレムエンドのようなものにはならず、あくまでリアルな血みどろの関係を描いた。作画に似合わないようなリアルな表現で。
そのギャップがウケタんだろうな。鬱ゲーという新たなジャンルも築いたわけだしw
ちなみに放送自粛するくらいだから、アニメ版の最終話もハッピーエンドではなかったってことか。
そもそもアニメ化という企画自体間違っているんじゃないか
Schooldaysといいひぐらしの鳴く頃に解といい、最近アニメの放送自粛が立て続けにおきた。どっちも実際にあった事件と関連を疑っての放送自粛らしいけど・・・、そもそも本当に影響があったかは全く立証されていないわけだ。それなのにマスコミのほとんどこじつけともいえる報道はなんというかあきれるのを通り越して気持ち悪いよ、ホント。ゲームとかアニメを叩く理由が自分にはわからない、マスコミにとって何のメリットがあるんだろうか、GTAやゲーム脳報道の頃にも思ったんだけど。
痛いニュース(ノ∀`) : 「ひぐらしのなく頃に解」 放送中止のお知らせ - ライブドアブログ
けど、この2作品には猟奇的なシーンが含まれていて、その猟奇的な部分が作品の大きな要素にもなっているのも事実。
http://ja.wikipedia.org/wiki/School_Days_(%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0)
ひぐらしのなく頃に - Wikipedia
だから原作ファンはアニメ化の報道を聞いたとき誰もが思ったことだろう
「おいおい、大丈夫か」と。
School daysはPC用アダルトゲームで、ひぐらしは同人ゲーム。まぁ、どっちもアングラな世界だから許容範囲内だったわけで。地上波というメインストリームじゃまず放送できる内容じゃないし、アニメ化を企画した連中もそのリスクはわかっていただろうけど、やっぱり話題性を優先したんだろう。仮に猟奇的な部分をカットすればできるだろうけど、それじゃ原作の魅力はスポイルされてしまう。
で、以前読んだこんな記事を思い出した
ゲーム「Dの食卓」などで知られる飯野さんによると、日本ポップカルチャーの強みは「ごちゃまぜなこと」。各国の音楽をごちゃまぜにしたJ-popや、人種や階級、宗教などにとらわれずに多彩な人や生き物が出てくるアニメ、暴力もエロも純愛もいっしょくたにしたゲームなどが、海外の人々には魅力的に映ると見る。
ごちゃまぜのルーツの一つは、日本のアニメや漫画製作の規制が外国より少ないこと。「海外のクリエイターは皆、規制の少ない日本で自由に作品を作ってみたいと言う」(竹内さん)
小学館で「ポケットモンスター」などのプロデュースを手がけた久保雅一さんによると、日本でゴールデンタイムに放映されているアニメ「犬夜叉」は、暴力シーンがあるためアメリカでは深夜にしか放映できない。鳥居が出てくるため、韓国では放映自体が不可能だという。
……アメリカでは犬夜叉でさえゴールデンじゃ放送できないわけだ、じゃあむしろ日本のほうが異常なのかもしれない。ただ、なにが恐いかっていうとこの地上波での規制という波が、ゲームやはたまた同人活動にまで広がるんじゃないか、ということ。(今のアニメ業界、というかオタク産業にとっては地上波の規制は充分致命的ともいえるけども)
創作活動においての「自由」があったからこそ、良くも悪くも日本のサブカルチャーはここまで独自の成長をしたと思うし、クリエイターが育たなくなるのはやっぱりまずい。(暴力や性的なものでしか表現できないのもどうかと思うけど)
一時期マスコミがアキバを持ち上げたときから嫌な予感はしていた。そもそも、日本のアニメや漫画って世間から叩かれる要素満載だからなぁ。そのうち世界中からバッシングされる日も来るのかもしれない。ただの一オタクとして見守るしかありませんが。
最近ニコニコ動画を騒がせているVOCALID 初音ミク。amazonでもソフトウェア売り上げランキング1位をキープをしていて、以前品薄状態が続いているようだ。
ニコニコ動画のランキングを見る限りでもちょっとしたブームと言えそうだ。
しかし、今まで似たようなブームは結構あった。それは、オリジナルカーペイントで人気を博したForza2であったり、バンブラでの打ち込みであったり、ゲーム動画を独自に編集したアイマスブームであったり。これらのブームは、ニコニコ動画という作品を発表する場があったからこそ成り得たといっても過言ではない。
ただ、今回の初音ミクブームは今までとちょっと違う点がある。
それは、今まで職人たちは既存ゲームの付加価値(というかおまけ的な要素)を利用して作品を創ってきたのに対し、「初音ミク」は、音声作成用の純粋なソフトウェアという点だ。なにより特筆すべきは、製作者側がニコニコ動画をあらかじめ視野にいれて製作したということ。
ニコニコ動画という「聖域」で愛されてほしい
ニコニコ動画では、初代VOCALOID「MEIKO」を使った動画がすでに人気だった。佐々木さんは「初音ミクもニコニコの視聴者の方々に愛されてほしいと淡い期待を寄せていた」としながらも「ニコニコは私のような制作・販売サイドの社員が邪念をもって接してはいけない『聖域』のように感じている」と謙虚だ。 (ITmedia)
ただ、ニコ動職人に愛されるツールを狙って作るのは想像以上に難しいことだろう。なぜなら、優れたツールが必ずしもうけるとは限らないからだ。Forza2は本来レースシミュレーションゲームであり、ペイント機能は円や多角形などといった基本的な幾何学的な図形を重ね合わせるという原始的な方法で、ツールとしては最悪といっていい。ただ、その制限こそが職人からは魅力的に映るのかもしれない、俺はこんなツールでこんな凄いものが創れるんだぞ、と。
初音ミクは「始まりかけ」なところがいいんじゃないか - エネルギー吸収と発散
こちらのブログで言及されているように、初音ミクもまだまだ完璧なソフトではないっぽい。確かに、まだまだ機械っぽさは残ってるんだよなぁ。まぁ、そこが「萌え」として受け止められている訳ですが。
また、打ち込みの技術によってかなり差が出るのもヒットの大きな要因の一つ。
(よく調教された初音もいれば、YAMA○Aのテーマを歌うのもいるw)
とにかく、オンラインでちょっとした作品を発表するフィールドが形成された以上、ソフトウェアというジャンルに大きなビジネスチャンスが転がっているのは間違いない。